オウム真理教教祖麻原彰晃氏は薬剤師?薬局を経営していた過去

ショーコーショーコー・・・・アーサーハーラーショーコー(麻原彰晃)。

なんとも不気味な歌声が記憶に残る宗教団体「オウム真理教」の教祖麻原彰晃。

彼は日本史上最悪の毒ガス事件「地下鉄サリン事件」を首謀し、2018年に死刑となりました。

その最悪の犯罪者麻原彰晃氏が過去に薬局を経営していたということが、元オウム真理教広報部長の上祐史浩氏のYouTube上での証言で明らかになりました。

証言箇所:再生後17分25秒後

そこで、麻原彰晃は実際に薬局を経営していたのか、薬剤師だったのかを調査し、ここにまとめました。

オウム真理教を簡単におさらい

オウム真理教とは、麻原彰晃を教祖とするかつて存在した日本の新興宗教団体。(wikipedia

1988年から1995年にかけて、坂本弁護士一家の殺害や、信者や元信者へのリンチ殺人や拉致監禁を繰り返したほか、毒ガス(サリン)を用いた松本サリン事件や地下鉄サリン事件など一連の残虐な事件を引き起こした。

1996年1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年2月には破産に伴いオウム真理教という名称は消滅し、いくつかの宗教団体へ分派した。

2018年に麻原をはじめとする元教団幹部ら13名への死刑が執行された。

 

麻原彰晃が薬局を経営するまで

結論から言いますと、実際に麻原彰晃は薬局を経営していた

1976年(当時21歳)に、熊本市内の実兄の経営する漢方薬店の助手を務めていたことがきっかけとなっている。鍼灸が上手だっという当時の患者からの証言もある。

1977年(当時22歳)に再度東京へ上京し、代々木ゼミナールへ入学するも、東大受験を3度志し、そして諦める。

1978年(当時23歳)に代々木ゼミナールで出会った松本知子氏(旧姓石井)と結婚し、千葉県船橋市に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院

半年後、松本鍼灸院を廃止し、新たに診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業

この頃に、「鍼灸師としては病気を完治することはできない。無駄なことをしているのではないか」と思い悩み、無常感を抱き、四柱推命気学を研究し始めた。

その後、台湾鍼灸漢方断易(だんえき)六壬(りくじん)を学び、奇門遁甲(きもんとんこう)仙道に辿り着き、神秘体験を経験したという。

さらなる修行を求めて、以前は嫌いだった宗教に近づき、阿含経(あごんきょう)そして阿含宗(あごんしゅう)に出逢う。

*四柱推命、気学、断易、六壬、奇門遁甲・・・・要するに占い術のこと

不正請求で薬局の閉鎖

1980年(当時25歳)に、国民健康保険の保険料の不正請求が発覚し、千葉県から670万円の返還を要求される。

不正請求の手法としては近所の医師から白紙の処方箋を入手し、適当な金額を記入しては保険組合などに調剤報酬を請求していたという。

(むしろ当時はそんなにずさんな請求方法であったのだろうか。白紙の処方箋を渡していた医師の罪はいかがなものだったのでしょう。)

 

翌年1981年(当時26歳)には新京成線高根木戸駅前に健康薬品販売店「MBA薬局」(ブッダ・メシア・アソシエーションの略)を開局

ちなみに当時の物件は取り壊されて残っていない。

店舗販売の他に、煎じたミカンの皮などから取り出したエキス(いわゆる陳皮エキス)を「万能薬」などと称して、リウマチ、神経痛、腰痛が30分で消えるなどという謳い文句で都内の高級ホテルの一室に人を集めて10万円近くを販売。

無論これは医療法違反。

このような無許可の医薬品を販売し、およそ4000万円を稼いだものの、「効き目がないどころか、下痢をした」などと告発され、1982年に薬事法違反で逮捕。20万円の罰金刑を受け、店を閉じた。

その後、京成船橋に戻り、クボタ治療院を開業

この店では耳のツボを刺激するダイエット法のブームに乗り店は繁盛。

ここで資金を得て84年の2月に、いよいよ渋谷区に「オウム神仙の会」を発足。

名前も松本智津夫から麻原彰晃と名乗り、悪魔集団への道を突き進んでいった。

 

麻原彰晃は薬剤師だった?

麻原彰晃は薬局を経営してきたが、そもそも大学(薬学部)を卒業したという記録がないので、薬剤師ではなかったと思われる。

鍼灸師の資格は習得していたとの記録がある。

 

別録:薬剤師リンチ殺人事件

薬剤師リンチ殺人事件とは

薬剤師リンチ殺人事件とは、元オウム真理教信者の薬剤師A(当時29歳)が元信者Bとその親族で、富士山の総本部で治療を受けていたBの母親を救出しようと試みたが失敗し、麻原彰晃の指示でBによって殺害された事件。

その薬剤師Aは明治薬科大学を卒業後に出家し、オウム真理教附属医院(東京都中野区)に薬剤師として所属。

加害者Bとは教団内で知り合った。

 

救出は失敗に終わる

薬剤師Aと元信者Bとその親族は母のいる第6サティアンへ向かった。

薬剤師Aと元信者Bは母のいる医務室にたどり着くが、越川真一らに取り押さえられ、催涙スプレーなどで抵抗するも及ばず麻原彰晃のいる第二サティアンへ連行される。

 

「これからポアを行うがどうだ」(麻原彰晃)

元信者Aの母の救出を失敗した薬剤師Aと元信者Bはこう告げられた。

「これからポアを行うがどうだ」

オウム真理教におけるポアとは「魂の転移」を意味する同じ言葉であり、成就者が弟子に命じて将来悪業を積む可能性のある人間の殺害は「魂の転移」となり、被殺害者も殺害者にも益となる、と説いている。

麻原は元信者Bに薬剤師を殺せば命を助けると発言し、Bは抵抗したものの、最終的に実行に応じることとなった。

薬剤師AはBに怯えながらも「いいんだ。それより巻き込んじゃってごめんな」と答え、死を覚悟する。

薬剤師Aがガムテープで目隠しされると、麻原が「彼は催涙ガスを使ったんだったな、それなら薬剤師Aにもやらないとまずいな」と言いだし、薬剤師はビニール袋を頭部に被されたうえでビニール袋の端から催涙スプレーを噴射された。

薬剤師Aは幹部複数名に押さえつけられ抵抗し「人殺し、助けてくれ」と叫んだ。

「もうしないから助けてくれ」と懇願したが、最終的に元信者Bによって絞殺される。

その後、死体は第2サティアンの地下室のマイクロ波焼却装置で焼却された。

 

麻原彰晃まとめ

  • 麻原彰晃は漢方薬局「亜細亜堂」を経営していた(非薬剤師)
  • 保険料の不正請求を行った
  • 健康薬品販売店「MBA薬局」では無許可の医薬品を売り捌いていた
  • 麻原彰晃が起訴された殺人事件の中で、唯一現場に立ち会った事件に「薬剤師リンチ殺人事件」がある